京都大学から金戒光明院へ
2014年 05月 06日
何十年振りかに京都大学に来た。
といっても京都大学卒業生でも受験した訳でもないが。
大学紛争たけなわの時、時計台に、紅衛兵のスローガンだった
「造反有理」 造反するほうにも理由がある
という垂れ幕が掲げられたのを見に来た野次馬だった。
あれから約45年、時計台はレストランになっていた
レストラン 「ラ・トゥール」 は日曜日も営業、ランチ時は盛況
天下の京大の時計塔は大正14年に竣工、90年の歴史を見てきた。
京都大学から東へ行くと、吉田山がある
吉田山は豊かな緑をたたえた、京都市内に浮かぶ緑の船のようだ。
吉田神社は平安時代、藤原氏の氏神だった奈良の春日大社を京都へ
勧請し、平安京の鎮守の神様として創建されたんが始まりで、
藤原氏の隆盛とともに栄えたが、室町時代、応仁の乱以降は荒廃
していた。 それを再興したのは、吉田兼倶
吉田家は、占いのひとつの亀卜をつかさどる家柄のひとで
代々すぐれた学者の出た一族で、知的エリート集団だった。
吉田神道の説明書を読んだことがあるが、非常に難解である。
とにかく、吉田山には、宇宙の根源であるという大元尊神を
お祭りしている。
吉田山を越えると、金戒光明院が見える
幕末、京都守護職として合津藩の松平容保公が本陣を置いたことで
明治維新、新撰組など、歴史ファン必見の場所と思うが、以外に参拝客は多くなく
ゆったりと散策できた。
建物は、昭和初期に火災にあって再建されたもので、当時のものではない。
合津藩の藩士が埋葬されているという墓地まで結構急な階段を
登っていったが、階段を上りつつ振り向くと、京都市内の見晴らしがすばらしい、
ここは寺院ではあるが、地形は要塞のようにになっていて京都市中を一望でき
会津藩が京都守護職を置いた理由がよく理解できた。
百聞は一見にしかず
上りきったところに国宝の三重塔がある。
金戒光明院から西のほうへ下ると、平安神宮へはすぐである。
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といっても京都大学卒業生でも受験した訳でもないが。
大学紛争たけなわの時、時計台に、紅衛兵のスローガンだった
「造反有理」 造反するほうにも理由がある
という垂れ幕が掲げられたのを見に来た野次馬だった。
あれから約45年、時計台はレストランになっていた
レストラン 「ラ・トゥール」 は日曜日も営業、ランチ時は盛況
天下の京大の時計塔は大正14年に竣工、90年の歴史を見てきた。
京都大学から東へ行くと、吉田山がある
吉田山は豊かな緑をたたえた、京都市内に浮かぶ緑の船のようだ。
吉田神社は平安時代、藤原氏の氏神だった奈良の春日大社を京都へ
勧請し、平安京の鎮守の神様として創建されたんが始まりで、
藤原氏の隆盛とともに栄えたが、室町時代、応仁の乱以降は荒廃
していた。 それを再興したのは、吉田兼倶
吉田家は、占いのひとつの亀卜をつかさどる家柄のひとで
代々すぐれた学者の出た一族で、知的エリート集団だった。
吉田神道の説明書を読んだことがあるが、非常に難解である。
とにかく、吉田山には、宇宙の根源であるという大元尊神を
お祭りしている。
吉田山を越えると、金戒光明院が見える
幕末、京都守護職として合津藩の松平容保公が本陣を置いたことで
明治維新、新撰組など、歴史ファン必見の場所と思うが、以外に参拝客は多くなく
ゆったりと散策できた。
建物は、昭和初期に火災にあって再建されたもので、当時のものではない。
合津藩の藩士が埋葬されているという墓地まで結構急な階段を
登っていったが、階段を上りつつ振り向くと、京都市内の見晴らしがすばらしい、
ここは寺院ではあるが、地形は要塞のようにになっていて京都市中を一望でき
会津藩が京都守護職を置いた理由がよく理解できた。
百聞は一見にしかず
上りきったところに国宝の三重塔がある。
金戒光明院から西のほうへ下ると、平安神宮へはすぐである。
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by minamihorie | 2014-05-06 21:10 | 散散歩京都